研究会


研究会 活動報告(甲府城と武田神社(2))

昼食後、一路武田神社へ。

 

武田神社は、甲斐の名将・武田信玄公を祀った神社で、
大正8年(1919)に創建。
この地は、元来、信虎・信玄・勝頼の武田家3代が60余年にわたって居住した
躑躅ケ崎館[つつじがさきやかた]跡(国指定史跡)に鎮座。
ご利益は「勝運」が有名で、「人生そのものに勝つ」「自分自身に克つ」と伝わる。
躑躅ケ崎館は戦国大名の館としては全国最大規模を誇るものとのこと。

武田信玄は、その迫力ある風貌や強すぎる武将、そして父親である武田信虎を
駿河に退隠させる等の為、私の中では「恐ろしい悪者」のイメージ。

しかし、武田神社の御祭神武田信玄の説明書きを読むと・・・
21歳の時に国主となって以来30年余、諸戦に連戦連勝を重ねるのみならず、
領国の経営に心血を注ぐ中、特に治水工事、農業・商業の隆興に力を入れ、
領民にも深く愛されました。
而して、現在でも県民こぞって「信玄さん、信玄さん」と呼びならわし
敬慕の情を表し、郷土の英雄として誇りともする所以であります。

とあり、戦以外にも大活躍をされた人物だったことがわかった。

http://www.takedajinja.or.jp/index.html

https://www.city.kofu.yamanashi.jp/welcome/index.html

宝物殿や境内を見学、散策し、遠い戦国時代に思いを馳せる。

また、清和源氏の流れをくむ甲斐武田家から会津へ伝えられ、
大東流合気柔術の中興の祖といわれる武田惣角のことを思い出す。
史実はどうなのか、私にはわからない。
が、戦国時代という戦乱を生きた人々がここにいた。

つくづく平和な時代に生まれてよかったと思う。

「金運」のご利益があると言われている「三葉の松」の黄金色(こがねいろ)になった
落葉を拾い、武田神社を後にする。

夕食は、山梨名物の「ほうとう」だ!

 

120年前の古民家を改装して郷土料理をだしてくれる、
甲州完熟屋に向かう。
山梨県の農業生産法人ホトト農場の直営飲食店とのこと。

http://kanjyukuya.jp/

山梨・甲府を堪能し、戦国武将の生き様にふれた一日だった。

 


研究会 活動報告(甲府城と武田神社(1))

第五回研究会を開催。

 

戦国最強と呼ばれ、「風林火山」の旗印のもと、
騎馬軍団を率いた甲斐の名将といえば武田信玄。

今回は、会員2名と私の3名で、

軍神・武神を訪ね、山梨県の甲府へ行ってきた。

まずは甲府城に到着。
甲府城は別名、舞鶴城、一条小山城とも呼ばれている。

 

当然、武田信玄の城だと思いきや、

-------以下、甲府城研究室(埋蔵文化財センター)甲府城の歴史より抜粋---------
天正10(1582)年に武田氏が滅びると、甲斐は織田信長の領国となりましたが、
本能寺の変後は徳川家康の支配下となり、平岩親吉が城代になりました。
豊臣秀吉が天下統一を果たすと、徳川家康は関東に移され、
甲斐は秀吉の甥にあたる羽柴秀勝が支配することになりました。
秀勝の移封後は、加藤光泰が、光泰が文禄の役で没すると
浅野長政・幸長の支配となりました。

発掘調査により、城内の各曲輪から浅野家の家紋瓦や、金箔や朱を施された瓦、
豊臣家の家紋瓦が出土していることから、築城はこの頃と考えられています。
関ヶ原の戦後に、甲斐は再び家康の支配下となり、
慶長12(1607)年には幕府の直轄地となりました。

 

http://www.pref.yamanashi.jp/maizou-bnk/ko-fu_zyou/koufu_jo_new/rekisi.html

そうだったんだ!

ボランティアで甲府城を案内しているお年寄りに説明をお聞きすると、
明治に入り、世は一気に西洋化を進め、甲府城も取り壊しの憂き目にあう。

まず内城全体が勧業試験場として利用。
さらに、鍛冶曲輪に葡萄酒醸造所が設置。

また、山梨県庁が旧楽屋曲輪内に設けられ、
中央線敷設に伴い北側の屋形曲輪、清水曲輪が解体されるなど、さらに城郭が縮小。

お年寄りが子供の頃は、城跡北側の線路脇には、線路埋設工事の資材や
石炭が山積され、衛生的にも汚く、荒れ放題だったとのこと。

甲府中学校の移転で、お城の西側、旧追手役所跡にあった
県庁舎や県会議事堂が楽屋曲輪跡に移り、
同時にその西側、南側の堀は完全に埋められた。

城の東西は道路で分断され、西側は山梨県庁が建てられ、
その周りも市街地になってしまった。

もったいない・・・。

お年寄りも、どこか寂しそうに語っていたのが印象的だった。

最後に、4月7日~9日に、信玄公祭りが開催されるので、また来て下さいと
しっかり宣伝もあり、とても有意義な甲府城見学ができた。

 

 


研究会 活動報告(小田原城)

第四回研究会を実施。

 

今回は、会員2名と私の計3名で

戦国武将の北条氏で有名な小田原城へ。

 

以下、小田原HPより抜粋
小田原の歴史
小田原城の前身は、室町時代に西相模一帯を支配していた大森氏が、現在の県立小田原高等学校付近の高台(八幡山)に築いた山城でした。
城の規模や築城年は明らかになっていませんが、15世紀の中頃に造られたのではないかと考えられています。


15世紀末、伊勢宗瑞(後の北条早雲)が小田原に進出し、以後、北条氏が5代約100年にわたって関東での勢力を拡大していきました。
小田原城は、関東支配の中心拠点として整備拡張され、豊臣秀吉の来攻に備え城下を囲む総延長9kmに及ぶ総そうがまえ構の出現に至ってその規模は最大に達しました。
しかし、天正18年(1590)、石垣山一夜城の築城をはじめとする秀吉の小田原攻めにより北条氏は滅亡し、戦国時代が終焉を迎えました。
北条氏滅亡後、徳川家康に従って小田原攻めに参戦した大久保氏が城主となり、城は近世城郭の姿に改修されました。
その後、大久保氏の改易にあたり、城は破却されましたが、稲葉氏の入城の際に再整備され、城の姿は一新されました。


貞享3年(1686)に再び大久保氏が城主となり、小田原城は東海道で箱根の関所を控えた関東地方の防御の要として幕末に至りました。
小田原城は、明治3年(1870)に廃城となり、明治5年までに城内の多くの建物は解体されました。
後に、小田原・足柄県庁・神奈川県支庁の所在地となり、さらに明治34年には、二の丸に御用邸が建てられました。
しかし、大正12年(1923)9月の関東大震災により御用邸のほか石垣もほぼ全壊し、江戸時代の姿は失われてしまいました。
その後、昭和9年(1934)に隅櫓が再建され、昭和35年(1960)5月には廃城以来90年ぶりに市民待望の天守閣が復興されました。
続いて昭和46年(1971)3月に常盤木門が、平成9年10月に銅門、平成21年3月には馬出門が完成しました。


小田原城は、昭和13年(1938)8月に二の丸・三の丸の一部が、昭和34年(1959)5月に本丸と二の丸の残り全部が国の史跡に指定されています。

http://www.city.odawara.kanagawa.jp/kanko/odawaracastle/


現在は、震災に耐えるよう平成の大改修を終え、展示物も充実。

天守閣内や常盤木門、歴史見聞館等、見どころ満載だった。

甲冑や日本刀はいつ見ても迫力があり、胸に迫るものがある。
それは、身を守るものであり、人を殺すものである。
が、同時に武士の魂が宿る芸術品でもある。

実際に甲冑を着、帯刀している武士を目の前にしたら・・・
恐ろしくて身動きができなくなるだろうな。

また、同時に武士の精神力の凄まじさをヒシヒシと感じた一日だった。



研究会 活動報告(三笠公園)

第三回研究会を実施。

 

今回は、会員2名と私の計3名で

神奈川県横須賀にある、三笠公園の記念艦「三笠」を見学。

明治時代。
日本は西洋化を一気に推進するも、まだ武士道精神が残っていた時代。

帝国化する西洋に対抗するべく、日本も帝国主義に走り領土を広げ、日清戦争を経て日露戦争へ。

その日露戦争(1904年に開戦)に決着をつけたのが、
1905年5月27日から28日にかけて行われた日本海海戦。
そこで日本の聯合艦隊旗艦を務めたのが戦艦三笠です。

三笠は日清戦争後、ロシアに対抗するための「六六艦隊計画」の
一環として建造された艦で、完成前に海軍の予算が尽きてしまったため
不法流用までして英国ヴィッカース造船所で作られました。
その期待に応え、日本海海戦で東郷平八郎率いる三笠をはじめとする聯合艦隊は
当時世界一と称されていたロシアのバルチック艦隊を完膚無きまでに圧倒して殲滅。
制海権を確保して日本を勝利へ導きました。

この戦いは、黄色人種が初めて白人に勝利した戦争となり、
日本の国際的地位を「五大国」の一員へと押し上げる結果となります。

また、この勝利は植民地支配を受けているアジアの国々を
大いに勇気付けることとなりましたし、
西洋人からも東郷の見事な戦いぶりを「東洋のネルソン」と呼んで賛美するなど、
世界中から大きな反響を得ることとなっていったのです。

日露戦争の勝利により、我が国は独立を全うし国際的地位を高め、
また、有色人種として蔑視され、抑圧、蹂躙されていたアジア・アラブ諸国に
希望を与え、独立の気運を促進しました。

当時16歳であったインドの独立運動家で後に首相となったネルーは、
日本の勝利に血が逆流するほど歓喜し、
インド独立のため命を捧げる決意をしたと自伝で述べ、
また、次のように子供に話したと伝えられています。
「日本は勝ち、大国の列に加わる望みを遂げた。
 アジアの一国である日本の勝利は、
 アジア全ての国々に大きな影響を与えた。
 私は少年時代、どんなに感激したかをおまえによく話したものだ。
 たくさんのアジアの少年、少女、そして大人が同じ感激を経験した。
 ヨーロッパの一大強国は敗れた。
 だとすれば、アジアは昔、度々そういうことがあったように、
 今でもヨーロッパを打ち破ることもできるはずだ。」

さらに、中国の革命運動の指導者であり「建国の父」と仰がれている孫文も、
「これはアジア人の欧州人に対する最初の勝利であった。
 この日本の勝利は全アジアに影響を及ぼし、
 アジアの民族は極めて大きな希望を抱くに至った」
と述べています。

これに加え日本軍は、海戦で海に投げ出されたロシア兵を残らず救助し、
日本人が戦争中のため十分な食事が摂れない中、
捕虜たちには十分な食事を与えるなどの紳士的な対応は現代でも高い評価を得ている上、
捕虜となったロシアの提督に対して、平八郎自ら見舞いに訪れるなど、
日本人の、そして平八郎の人間性の高さや武士道精神を示す逸話が数多く伝わっていることも、
この戦争の特色のひとつに挙げられるでしょう。

1921年のワシントン軍縮条約によって廃艦が決まった「三笠」ですが、
現役復帰できない形での保存が許されて横須賀に保存されました。

第二次世界大戦後は艦上にアメリカの軍人向けに「キャバレー・トーゴー」
や水族館等の遊興施設が作られたり、艦上構造物を持ち去られてしまうなどひどい状況でした。
遊興施設は一時賑わいを見せたものの次第に客足が遠のき、
戦艦三笠は手入れされることなく放置され、
錆まみれの哀れな鉄屑同然になってしまいました。

その後、復元保存運動のおかげで無事ほぼ完全な形に修復され、
現在も横須賀に保存されています。

戦艦三笠は、艦首には輝く菊花紋章が掲げられ皇居に向き、
その遥か遠方にはロシアがあり、今でもにらみを利かせている。



記念艦「三笠」公式ホームページ
http://www.kinenkan-mikasa.or.jp/index.html


研究会 活動報告(町田時代祭り)

もりの古武術活法研究会の第二回研究会を行いました!

会員の方1名と私の2名で、東京都町田市で開催された、町田時代祭りを見学。

到着時間が時間が遅くなり、流鏑馬しか見られませんでしたが、
凄い迫力でした。

馬はサラブレッドではなく、

日本在来馬の道産子(北海道和種)と木曽馬(長野県)の希少2種。


馬具も江戸時代に使われていたものを使用した由緒ある流鏑馬でした。


しばらく見学していると、私淑する日本古武術界の重鎮、島津先生のお姿が!

お声をかけ、写真をご一緒させて頂きました。

 



島津先生は、
柳生心眼流竹翁舎 主宰、森重流砲術研究会 会長、筋整流法最高顧問
をされており、この町田時代祭に数多くの門弟を参加させています。

島津先生の略歴
昭和13年生まれ。
昭和30年、柳生心眼流狩野派・佐藤派、相沢富雄師範に師事し、相伝を受ける。
昭和49年、柳生心眼流竹翁舎を開設し、以来、長年に亘り修行と研鑽に努める。
古武道雑誌「秘伝」の名付け親として編集顧問を務め、日本武術界の重鎮として活動を続けている。

緊張して、突然お声をかけたにもかかわらず、気さくに応じて頂きました。
ありがとうございます。

改めて、日本の文化・古武術に感動しました。


研究会 活動報告(ザ刀剣 千年の匠の技と美)

もりの古武術活法研究会の第一回研究会を行いました!

会員の方2名と私の3名で、東京・八王子にある美術館で開催されている
刀剣展に行ってきました。

日本の古武術といえば剣術。
武士の魂がやどる日本刀。

 

一千有余年の歴史と伝統を持つ日本刀を真近に見、
その美しさと、残忍に光る輝きに身がすくみました。

刀を手にした武士(相手)と対峙したとき、いったい何ができるだろうか?
きっと、身動き一つできないだろう。

人を殺める道具を常に身に付け、人を殺める技を身につけ、
それでいて、それが普通の生活。
だから武士道が必要だったのだろう。

今の日本ではとうてい考えられない。
だから今、武士道精神が失われつつあるんだろう。

そんなことを考えさせられた研究会でした。