活法


活法の歴史(その1)


 活法の歴史を調査・研究。


古くは神話時代。
諏訪神社上社の祭神と鹿島神社の祭神が力比べをした際、
まるで若葦をつかむように手を握りつぶされて骨折してしまった。
諏訪神社上社の祭神は、降参して信濃国諏訪湖畔まで逃げ、
その骨折した諏訪神社上社の祭神の手を、鹿島神社の祭神が治療したとされる。
この神話により、鹿島神社の祭神は、骨折の祖神とする伝説がある。
これが活法の始まりであるとされている。


奈良時代には、日本史上の初めての律令である『大宝律令』に、
骨、関節の損傷(外傷)を取り扱う官職についての記載がある。


また、日本最古の医書に全30巻の『医心法(いしんぼう)』という古文献がある。
当時の、中国(唐代)に存在した膨大な医学書を引用した内容で、
文献史上・国学史上・書道史上から大変重要視されている古文献となっている。

その『医心法』第18巻に、脱臼、骨折、打撲、創傷などについて詳細に記載があり、
その後の、多くの療術・法術や武術・剣術などの流派も、
大本はここの部分からの派生がほとんどと言われている。


一般的な活法
発祥の歴史として浸透している内容は、
戦国時代、(諸説あるが、1467年の応仁の乱頃~元和偃武1615年の約150年間)

殺法は人殺しの方法として発達してきた武術剣術・忍術・柔術・砲術・戦闘術等で、

 総称して兵法と呼んでいた柔術でいえば、当身技、投技、絞技、関節技、固技となる)
であったが、

その裏で、活法は、傷ついた仲間を、素早くその場で回復させ、戦列に復帰させる、
あるいは逃走させるための、人を活かす方法で、秘伝の技術柔術に関して言えば、

 骨折、脱臼、打撲、捻挫などの外傷を治すものや、出血、仮死者に対する蘇生法等)
として幾多の達人によって開発され、その有効な技術が後世へと受け継がれ、
膨大な数におよぶ手技が集成されてきた。


活法も日本の文化そのものの歴史と同じく、海外の医学からも大きく影響を受けており、
仏教伝来以降、中国や朝鮮、中近東の医療技術も伝えられたと考えられる。

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世紀中ごろには南蛮(スペイン、ポルトガル)流の医学が伝わり、
それ以降19世紀にかけ、オランダ医学を中心としてイギリス、ドイツ、フランス等
科学、医学も導入。
これら東西の医学に日本独自の研究成果を加え、
江戸時代末期には、各流派で活法術が体系化されていったと思われる。

徳川幕府による平和な江戸時代が長く続いたことで、
殺法・活法といったものの研究・研鑽も大きく進んだものと捉えられる。

武士の時代。常に戦、死と隣り合わせの時代背景をもつ活法だからこそ、
究極的に高い即効性をもった技術が、数多の先達たちによって無数に編み出され、
吟味され、本当に有効な技だけが膨大な数の手技として活法に付け加えられてきた。


素晴らしい効果が認められる技術だからこそ、敵や他国、他流に知られることを恐れ、
一般には公開されず、秘伝中の秘伝として簡単に明かされることはなかった。

また、表の武術(殺法)に対して、裏技の活法という位置のため、
明治時代以前の現存する資料の中にも
活法に関する具体的な記述が
見つかった
という報告はほとんど無く、
一子相伝、口伝によってのみ、伝承されてきたと考えられる。


そして、江戸時代から明治時代に。
西洋万能の風潮の中、日本文化は大きく一気に西洋化へと傾く。

剣術は剣道へ、柔術から柔道・合気道へ、唐手はカラテへ・・・
古来からの武術は競技化、スポーツ化し、
武術としての身体の使い方や危険な殺し技、

殺法の伝承の大半は失われてしまった。

同時に
西洋の医術におされ、東洋の医術と共に活法の伝承もほとんどが姿を消してしまった。


歴史に翻弄されながらも、明治時代の柔道家・柔術家(天神真楊流の門人が中心)の活躍により、
活法の一部の流派の技が、大正9年、内務省令により「按摩術営業取締規則」を準用する形ではあるが、
「柔道整復術」という名称で公認され、後に独立した
国家資格とされるに至った。

一方、
柔道整復術への統合から漏れてしまった一子相伝、口伝によって伝承されてきた、

活法流派の技の多くは失伝してしまうものが多かった。

 

しかし、一部の活法流派は、整体術・民間療術として現在にも細々と伝えられており、
近年になりインターネットの出現やSNS等を利用した、
情報化社会、商業化に

伴って徐々に表舞台に出てくるようになってきた。

知る人ぞ知る。という、埋もれた存在だった活法が、
その素晴らしい技と術により、身体の不調が劇的に改善されたという方も増加し

表に出るようになり、改めて日本文化、活法が見直され、注目されてきている。